メモ帳あるふぁv2

Since 2004/2009-2022 気が向いたときに長文を書く用。暇人であるときが懐かしく感じます。

由来を知る

とあるゲームのとある用語についての、もともとの由来ってなんだったかなー分からないなーとつぶやいたら有識者の知人から教えていただいてなるほど、と思った。今日のいままでまったく知らなくて、そのあとちょこっと調べてみると確かにその通りで、合点納得した。

そのやりとりから思いだしたのが、由来となった事象の当時(1998年)は自分はまだ中学卒業前くらいの話だったなあ、と。インターネットもなかった時代に、とある田舎の地方都市で中坊が仲間内で遊んでいたゲームについて、もしかすると関東ではそれなりのコミュニティみたいなものがあったとする。その界隈の中では意味が通じる言葉が、関東から一田舎に伝わってくるってほぼないんだろうな、と。なので、当時由来を知ることがなかったのはまさにその通りで、一方でおそらくコミュニティがあり、当時の歴史を知る人からそれを聞けたことに、すごい納得感があったのである。

一方で。今でこそゲーム攻略とか用語とかはまとめている情報サイトがあるから一瞬で伝搬して、誰もがそれにアクセスして情報を得ることができるだろうけど、その昔、ゲームがファミコンだったりスーパーファミコンだったりした時代は個人か兄弟、せいぜい近所の友達で共有するくらいが関の山。隠し要素がある、みたいなものもホントか嘘か分からないでたらめな話も多かった。そのあとくらいにネットが始まり、同好の士が情報を共有したりコミュニティを作ったりするのを見たり体感したりして、すごいなーと思っていた。

けれど、そんな感じで情報が共有されると、各地のすごい人の情報もたくさん入ってくる。自分なんかまだまだじゃん、追いつかないなあと思い知らされることも増えてきた。そこから現代にいたるまで、ゲームでもビジネスでも何でも、すごい人はものすごく可視化・目標とされる状況で、そこまでいかないとその他大勢実力不足、みたいな雰囲気や風潮があるからなかなか頑張る気力が起きない。ベンチマークとすべき目標が高すぎて萎えちゃう、みたいな。

情報が好きに得られるのは便利でもう以前の世界には戻りたくないけれど、可視化されすぎてしまうのも微妙で、30年くらい前の情報共有がされない世界はある意味精神的に穏やかに過ごせる世界なのかもしれないね。